刀ステ慈伝 感想

 

まず最初の感想。

あれ、これほんとに刀ステ軸の本丸かな?

そう思うくらい別の本丸かと思った。

だって誰もが笑顔で、ほのぼのしていて、前作と比べると刀というよりまるで人間みたいな。

畑当番や馬当番などの内番をする者、サボって気持ちよく寝る者、酒やお茶などを飲む者…皆で笑い合いながらも、本丸の引越しで荷物を運んでいるということで、あ、やっぱりあの本丸だよな…?とやっと思った。

そしてやはり思うところが、三日月宗近の存在がなかったこと。前作、悲伝において三日月宗近は本丸を去ったため、いないことは前提なのだが、それでもまるで最初から三日月宗近という刀はいなかったような、そんな余りある違和感。

そこまで思って、ああ私の認識している刀ステ軸の本丸は三日月がいてこそのものなんだなと。

 

そして漸くこの本丸にて彼しいては、あの事件の後の影響というものが見えてくる。

長谷部が、監査官の正体について見当違いの答えを出す山姥切に対して、「以前はああではなかった」や「上の空になっている」と言ったこと。

確かに。と思った。

他の刀達が楽しく笑いあっている中、山姥切だけがどこか浮いているというか、溶け込めていないというか。

やはり三日月を救えなかったことを引きずっているのかな…と。引きずっているというか、三日月の存在に思っていたより影響されていたというか。

しかし、後に山姥切はそれだけが理由で上の空だったわけではないとわかる。それについては後述する。

 

長谷部が真っ先に山姥切を心配していることに、ああ仲間をこんなにも気遣えるようになったんだな…と思ったけれど、長谷部はあくまで主のためと言う。

言い換えると、それだけ山姥切国広という刀がこの本丸において重要な刀であり、山姥切の言動やその状態が本丸に影響してしまう、ということだ。

明らかに三日月のことを引きずる山姥切に対して、周りの刀たちは普段通りに(もしくはさらに明るく)しているのは、皆山姥切を案じてのことだったのかもしれない。

長谷部や山伏、同田貫が率先して山姥切を心配する、特に同田貫が山姥切のために怒ったこと。本丸初期からいるメンバーが山姥切をこぞって気遣い、その前に率先して立とうとしていることに、ああそうだよな三日月が来る前からまんばちゃんが隊長だったもんな…とジョ伝を思い返しながら納得した。

 

特に今作では長谷部の影響は大きい。近侍である山姥切と同じ、少なくとも一番近い立場であることは見てわかる。

山姥切、小夜、長谷部、骨喰、同田貫、山伏が初期本丸メンバーだと考えると、なるほど適任ではある。

初期から山姥切といるからこそ、彼のことを理解しているのだろうし、彼が悩んできたことを知っているからこそ真っ先に動いたのだろう。

だから、主のためと言いながらも、山姥切に本当のことをなかなか言えなかったのは山姥切を慮ってのことだと分かる。

 

 

そして物語は進み、山姥切VS長義(VS鶴丸率いる第3部隊)の部隊戦。

酒の席で語り合うのではない。「刀は刃で語り合う」。そうだ。私は認識がここで戻る。彼らは刀なのだ。

今作は、まるで人間のように過ごしているから刀ということを忘れてしまいがちだ。(きっとこれは末満さんの思惑でもある)

そしてあの冒頭の花丸時空のような空気とは一変して、刀の本性とも呼ぶべきものが見えてきた。刀を抜くとまさしく変貌する。

如何様に人間のような暮らしをしていても彼らはやはり人ではないのだなぁとまず思った。

 

そして今作では大太刀が登場したが、これまた殺陣の魅せ方が上手い。

太郎太刀と次郎太刀の息のあったコンビネーションもさることながら、同じ大太刀でも振るい方の差が歴然だったし、打刀や太刀とは違う重みのある攻撃とその攻撃範囲の広さを、効果音とゆっくりと振るうことで実現していた。

 

短刀の子達も戦いになるとその変貌さに舌を巻く。幼い身なりをしていても、やはり刀は刀。素早く相手の急所を1番に狙いにいく姿はどの刀よりも無慈悲な攻撃だと個人的に思う。

 

刀種の違いについては書き始めるとキリがない(というか私が個人個人の殺陣について思っていることがありすぎて書けない)ため、ここら辺で割愛させていただくが、ぜひこれはご自分の目で確かめてほしい。

 

さて話は戻り、山姥切VS長義。

お互いに譲れないものを主張する戦い。まさに意地と意地。

ここからは少し山姥切と長義について書かせて頂きたいと思う。

 

長義は何故こうも頑なに山姥切国広を認められないのか。

山姥切長義としてのプライド。私たちのは山姥切国広という刀が初期刀の枠にいるから、この本丸に当てはめて見ても、山姥切=山姥切国広という認識がある。これはその長義自身にとっては屈辱以外の何ものでもないのだ。

名刀としてのプライドがある。写しは山姥切国広なのに、自分が顕現された時まず先にくるのが"あの山姥切国広の本歌"では、プライドはズタズタに引き裂かれただろう。それ故に彼は意固地になってしまう。ならざるを得ない。

写しより完璧でいなければならない。だって自分が"本物"なのだから。写しより劣っていてはならない。彼は"偽物"なのだから。

私が思うに、彼の中ではきっと写し(山姥切国広)=偽物ではないとわかっている。山姥切長義という刀は愚かでは到底なく、むしろ聡明な刀だ。初の実戦で見事山姥切を孤立させ、6:1に持ち込んだ程の頭脳があるのだから。

それでも認めてはいけない、認められない。

 

対する山姥切国広。彼にとって写しということがコンプレックスなのではなく、写しだからと侮られること、比較されることがコンプレックスだ。それは極前の彼にとっては決して切っても捨てられない悩みである。

彼にとっての屈辱とは、己が偽物であると評されたこと。自分が国広第一の傑作だという誇りはあれど、自信はない。だから長義の嘲りの前で俯いてしまう。

 

そしてさらに山姥切国広にとって刺さったのが、「この本丸はお前が育てたのではない」という言葉。

まさしくクリティカルヒット

なぜならこの本丸は三日月が育てたものだ。自分も育てられた。

山姥切からしたら、三日月が育てた、守りたかったものである本丸を、三日月を救えなかった弱い自分が引き継いでいるという形なのだから、深く刺さっただろう。

彼自身気にしていたからこそ、もっと強くなりたい、三日月が守りたかった本丸をみんなを守りたい、もう失わないように、守れる程に強くなりたいと思っていたから、常に上の空だったのだ。

 

しかし、仮に長義が山姥切より早くに顕現されていても、この本丸にはならなかったはずだ。きっと三日月宗近の太陽ではなく、彼を救うこともない。

やはり山姥切国広がこの本丸にとっての鍵なのだ。

 

 

長義の見事な策で6:1になった時、私は悲伝の三日月が皆と相対した時のことを思い出した。

そしてあの時の彼と同じように圧倒的なまでの強さで、人数の差など関係なく、勝利していく。

これは当然だろうと思う。あの円環の中の化け物並の強さの三日月に鍛えられ、育てられ、最期は三日月にほんの少しでも刃を届かせた刀なのだから。

今までも山姥切が成長していくと共に三日月に似ていくのは分かっていたが、ここでさらに三日月に近づいているのだと感じた。

長義と山姥切の一騎打ちは、過去の三日月と山姥切の一騎打ち(1番最初の)を彷彿させた。

 

しかしここで私は再び違和感を覚える。

山姥切国広という刀は果たしてこうであっただろうか?ということ。

長義が直情的に果敢にもかかっていくのに対し、冷静に表情1つ動かさずただ打ちのめしていく姿。長義は実戦経験がなくその言動が幼く見えてしまうが、そうではなく、山姥切があまりに経験を積んで成長しているからそう見えるのだが。

何も言わずただ力でねじ伏せる。

山姥切国広はこういうことをする刀であっただろうか。

義伝において、小夜と戦った時。三日月が己にしたように小夜を導きながら、成長を促していたけれど、今回全く違うように見えたのはあの時と山姥切自身の在り方や心持ちが違うからなのだろうか。

そして思うに、本歌がコンプレックスを抱えて自分に挑む姿が、過去にコンプレックスを抱えて三日月に挑んだ己と重なったのだろうと思う。

 

実は慈伝の中でここの解釈が1番難しいのではないだろうか。

ただ力だけ長義をねじ伏せることに、今まで私たちが見てきた山姥切国広とは全く違う姿に見えたのは、私たちだけでなく、周りの刀剣男士達もなのではないだろうか。

 

山姥切国広は今で十分強い。

それでも長義に勝っても彼の心が晴れなかったのは、それが見せかけだけの強さだから。だってその強さだけでは、三日月は救えなかった。守れなかった。

彼にとっては守りたいものを守れない、この強さでは意味がないのだ。

それでも心から強くなりたいと思う山姥切が修行に行くことが出来なかったのは、三日月から託された本丸を離れるわけにはいかなかったから。

彼の中でもう優先すべきなのは自分ではなく、本丸、仲間たち、主なのだ。

そんなところまで三日月本人に似てきている。

 

 

そして物語の終盤で五虎退の探し物が判明する。

薄々そうではないかと思ってはいたが、予想通りどんぐりだった。そして皮肉ながらその三日月がくれたどんぐりが収められていたのが、夫婦刀と言われた一期一振がくれた巾着。憎い末満…

 

どんぐりの実は持っていると長生きできるという程、生命の象徴で、同時に成長すると大木になることから、希望や可能性の象徴にもなっている。

三日月自身の手でひとつひとつ、どんな思いでどんぐりを拾っていたのだろうか。考えるまでもなく、その心にあったのは本丸の皆なのだろう。まさしく彼の優しさだ。

修行に行く刀を見送る時、どんぐりを渡しながらも、主には野垂れ死ぬのならそれまでだと言っていた。

厳しくも、仲間を想う心は密かにそのどんぐりに秘められていたのだ。

 

そしてさらにそのどんぐりを三日月自身も持っていたという意味に気付き、号泣した。

彼も本丸に帰りたいと泣いていた。不如帰…。

帰れない事実変えられない現実を幾度も繰り返しながら、そのどんぐりに希望を込めていたのだと思うと、叶って欲しいと切実に願う。

 

今作において重要なワードが、鶴丸の「心はここにあらずじゃなくて、心はここにあったんだな。」のひと言。

「非ず」心=悲伝   ⇔「慈る」心=慈伝

鳥肌。

なるほど、と。あっと思った。

月のない日々が続くのではなく、月のあった日々を慈しみながら日々が続くのだ。

悲伝と慈伝では三日月の存在の有無という大きな違いがあったけれど、三日月がいなくなってからその心の優しさに気づいたことは皮肉だけれども、山姥切にとっては背中を押されたようなそんな心地がしたのではないだろうか。

そういうあっと言わせてしまうところが末満さんの脚本だよなぁと思う。

 

皆三日月を忘れてはいない。三日月がいた日々を想いながら、前を向いて日々を過ごしている。

落ち行く葉のように日々が過ぎていくことは止められないし、寂しいことだけれど、確かに三日月の心があり、皆の中に常に三日月の存在があるということが、物語の終盤でわかる。

そして各自の日々が流れていくのは冒頭と変わりはないのだが、その所作に三日月を感じるようなところや、一振一振が三日月を想う行動が追加されていた。

 

長義が評した「この本丸は強い」とは単純に刀としての強さなのではなく、心が強いということなのだろう。

山姥切国広がこの本丸を守りたいと思っていることを知っているから、それを支えているのが本丸の刀たちなのだ。

安心して修行に行ってきていいよ…。

帰ってきたら、彼の抱えていることを仲間にも分けられるようになっているといいと思う。

 

そして私の推しである鶴丸国永について少し語らせて頂こうと思う。

鶴丸国永が鶴丸国永だった。

殺陣もより洗練されていたし、何より健人さん自身の表現の幅が広がっていたように思える。(贔屓目かもしれないけど)

今までのお茶目で可愛らしい鶴丸と戦闘の時の鶴丸の荒々しさと真逆でその表現の仕方が本当に上手くなったと感じた。

 

それからこの本丸においての鶴丸の役割。

鶴丸国永という刀は、一見誰よりも笑ってわちゃわちゃしている感じが先行しているが、実は誰よりも本丸のどのメンバーともよく接しているのがこの刀なのではないか。

鶴丸国永という刀自体常に動いているような刀だと思ってはいるが、この本丸の鶴丸は驚きを求めるという行動において、周りを笑わせながら、全体を見ている刀なのだと思う。

あと個人的に短刀に対する態度が本当に優しくて好き……。

 

同じく年長者の一振りである鶯丸が、長義に諭したりしているように、鶴丸の役割は本丸全体を見渡し、時には手助けをしたり、驚きを届けることで和ませたり、ムードメーカー的な存在だと思う。

本丸初期メンバーが表立って山姥切をささえるのに対し、影から支える。縁の下の力持ち的な存在。

 

鶴丸国永は私の推しの一振りなので個人的解釈が強いところもあるけれども…

 

少なくとも三日月と山姥切との差はそこにあると思う。

三日月も山姥切も1人で抱え込んでしまうところはあるけれど、三日月は皆を支える立場だったのに対して、山姥切は皆に支えられる立場なのだ。

山姥切国広が皆が支えたいと思う近侍になったことも、支えられる近侍が本丸を皆を守ろうとしていることも、明確な言葉がなくてもお互いに想いあっている、こうして見るとなんていい本丸になったんだろうかと感慨深い。

 

心から強くなった山姥切国広に会いたいし、彼の願いも叶うことを祈る。